高市早苗と茂木幹事長の不仲理由はなぜか【確執は初当選時からある!?】

2022年に入り、自民党の高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長が不仲ぶりが話題になっています。

ポスト岸田の呼び声高い高市早苗政調会長と茂木幹事長ですが、確執があるようでまったく馬が合わない様子です。

そこで今回は高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の経歴を振り返り、不仲理由がなぜなのかを解説していきます。

高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長が不仲(確執)が話題に

2022年に入り、高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の不仲(確執)が話題になっています。

2022年3月16日においても、ガソリン価格の高騰を食い止めるために議論されている「トリガー条項」。
現在各党の幹事長同氏で協議をしていますが、高市早苗政調会長は会見で「まったく協議内容が伝わってきていない」と不満を口にしています。

そんな高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長がなぜ不仲なのかを、当選当時まで遡って検証しました。

高市早苗政調会長と茂木幹事長の不仲(確執)理由はなぜか

高市早苗政調会長と茂木幹事長の不仲(確執)の理由がなぜかというと、2人の初当選時の環境を比較すると、政治に対する考え方が元々違うからだと考えられます。

なお、高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長は、初当選が1993年でいわゆる「同期」です。

まず、高市早苗政調会長は1993年に無所属で初当選を果たすと、その後自由党を経由して新進党の党員となります。
新進党は現在立憲民主党に所属する小沢一郎議員が党首を務めていたこともあり、高市早苗政調会長は現在の自民党とは違う政治思想を持つ政党に所属していました。

1996年まで新進党に所属していた高市早苗成長会長は、小沢一郎元党首の政策についていけなくなり離党。
高市早苗政調会長は同年に自民党に入党しています。

対して茂木敏充幹事長は、当時与党だった日本新党から出馬して1993年に初当選。
茂木敏充幹事長は日本新党解党後1995年に自民党に入党しました。

1993年 1994年 1995年 1996年
高市早苗 初当選
(無所属)
自由党
→新進党
新進党 新進党離党
→自民党
茂木敏充 初当選
(日本新党)
日本新党解党
→無所属
自民党 自民党

つまり、高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長は初当選から高市早苗政調会長が自民党に入党するまでの約3年間は、異なる政治思想の組織で活動していたことになります。

高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の当時のやりとりについては知ることはできませんが、同期当選であることを踏まえると、2人はお互いを意識し合うライバル関係で、それが確執となり不仲になってしまった可能性は十分にあり得ます。

したがってその時の確執が2022年現在でも根強く残っており、さらにはポスト岸田を狙う者同士でもあるので不仲状態にあると仮説を立てることができます。

高市早苗政調会長と茂木幹事長の不仲(確執)エピソード

高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の不仲(確執)なのは「トリガー条項」の件でも解説しましたが、北京オリンピックを巡っても2人の間にはバトルがありました。

高市早苗政調会長は『南モンゴルを支援する議員連盟』会長の職にも就いる関係で、北京オリンピックが始まる前に話題になった「外交的ボイコット」を岸田総理大臣に勧めました。

外交的ボイコット

中国の人権侵害に対抗するため、オリンピックに政府関係者を北京へ派遣しないことを取り決めたものです。

結局岸田総理は「外交的ボイコット」という言葉を使うことなく政府関係者を中国に派遣しない、という折衷案をとったのですが、その裏には茂木敏充幹事長が高市早苗政調会長の進言に首を縦に振らなかったから、と週刊文春は報じています。

このように随所に対立しあう高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長ですが、確執がなくなり不仲が解消されるのはなかなか難しそうです…

【まとめ】高市早苗政調会長と茂木幹事長の不仲理由は初当選時からか

今回は高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の不仲理由がなぜなのか、について解説しました。

高市早苗政調会長と茂木幹事長は初当選時は異なる政治思想の組織に所属していたことを背景として、当時から確執があり不仲だった可能性があります。

自民党の要職に就いている2人ですが、こうもあからさまに不仲が報じられると日本の政治は大丈夫なのか心配になりますよね。

どうか高市早苗政調会長と茂木敏充幹事長の確執がなくなり、2人が不仲が解消されることを切に願います。

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